東部高地への攻撃後、戦場は概して時折静まり返っていた。しかし、昼夜を問わず地面を掘る鍬の音は次第に大きくなり、その静けさは恐怖を誘うものではなかった。鍬の音は「 ディエンビエンフーのヤマアラシ」の死の刻を刻む音だった。
敵側:ディエンビエンフーにて、ド・カストリーはコグニーからの電報を受け取り、ゴダール中佐指揮下の4個大隊による「コンドル」計画が実行される旨を知らされた。この計画によれば、4月20日までにゴダール中佐の部隊はナムフー川流域のムオンコア・パクルオン地域へ進軍することになっていた。
1954年4月14日の朝、空港を巡回していた最初の敵部隊は、西側の塹壕が206拠点と105拠点から中央部への連絡を遮断されていることに突然気づいた。別の塹壕がムオンタン空港に直結していた。それだけでなく、206拠点からも基地の西側が敵の塹壕に囲まれているとの報告があった。正午、第6空挺師団と第8空挺師団は206拠点への進路を開こうとしたが、新たに敷設された地雷原と迫撃砲弾によって阻止された。

我が軍の塹壕はムオンタン空港を半分に分断し、突撃部隊が敵を殲滅するのに好条件を作り出した。写真提供:VNA
13時30分、ド・カストリーはコグニーに電報を打った。「…GONO(北西作戦グループ)の運命は5月10日までに決定される…戦闘は激化しており、ユゲット1とユゲット6が脅威にさらされている。今朝、ユゲット1を救出しようとした際、ユゲット1、ユゲット3、ユゲット5の間に多数の地雷原があり、迫撃砲と砲撃を受けた。滑走路の修復と並行して、日没後も戦闘は継続される…」。
4月14日の午後、事件が起きた。エペクヴィアに最後のトラックとジープが集結し、新たに投下された食料を受け取り、輸送・配布する最中、一帯に砲弾が連続して着弾した。戦闘食糧5,800食、チーズ300kg、お茶700kg、塩450kgなど、様々な食料が焼失した。同日、基地グループは4月29日から各人の食料配給量を半減させると発表した。
我々の側:計画通り、第308師団の2個連隊と第312師団の2個連隊が空港の北側周辺に展開した。空港西側を守る第206基地は、第36連隊の塹壕によってムオンタンから遮断されていた。空港北側の第105基地も、第165連隊の塹壕に囲まれていた。第308師団と第312師団の2つの塹壕は、急速に空港の中央へと進撃していた。

塹壕は夜間に構築され、綿密にカモフラージュされ、前線全体に同時に展開されたため、フランス軍の攻撃を分散させることができた。写真提供:VNA
東部高地への攻撃後、戦場は概して静まり返っていた。しかし、この静けさは、昼夜を問わず地面を掘る鍬の音ほど恐ろしくはなかった。鍬の音は次第に大きくなっていた。鍬の音は「ディエンビエンフーのヤマアラシ」の死の刻を刻む音だった。フランス軍司令部はこれらの鍬を非常に恐れ、ムオンタンの掘削音を検知するための機械をパラシュートで投下した。しかし、ここにいるフランス兵にはそれらは必要なかった。機械がなくても、鍬の音ははっきりと聞こえたからだ。彼らが必要としていたのは、掘削作業員が作業を続行するのを阻止できる何かだけだった。
昼夜を問わず、刻々と我が軍の塹壕と地下塹壕は中央地区へと徐々に接近していった。敵からわずか数十メートルの塹壕から、我が軍兵士はDKZ砲を用いて掩蔽壕や砲座を破壊した。
迫りくる塹壕は、敵に多くの災難をもたらした。要塞の有刺鉄線と地雷原は、攻撃者を守る障害物となった。狙撃部隊は予期せぬ陣地を見つけ、要塞から顔を出した敵を容赦なく攻撃した。ナムロム川からの水汲みは極めて困難になった。川岸にすぐ住んでいる敵でさえ、水を汲みに行く勇気を持たなかった。彼らは要塞に陣取り、缶を川に投げ込み、ロープで引き上げた。狙撃兵は缶を狙って発砲し、回収したのは空き缶だけだった。
(抜粋)
1. ヴォー・グエン・ザップ将軍:全回顧録、人民軍出版社、 ハノイ、2010年。
2. ホアン・ヴァン・タイ将軍:全集、人民軍出版社、ハノイ、2007年。
3. ディエンビエンフー作戦 ― 事実と数字/グエン・ヴァン・ティエット=レー・スアン・タン、人民軍出版社、ハノイ、2014年。
4. ディエンビエンフー - 両側から見た図、Thanh Nien 出版社、2004 年。
5. 『ディエンビエンフー 歴史的邂逅/ヴォー・グエン・ザップ将軍の思い出』 ヒュー・マイ著、情報通信出版社、2018年。
人民軍新聞によると
ソース
コメント (0)