イラスト:LE NGOC DUY
おそらく、田舎で育った人にとって、台所はいつも、午後遅くの心地よく穏やかな雰囲気を漂わせているのでしょう。台所の煙が漂い、素朴な食事に子供たちの笑い声が響き渡る。母の台所は、二度と訪れることのない日々の、数々の穏やかな思い出を呼び起こします。嵐の日に、香ばしいもち米の鍋、塩辛い漬物で煮込んだ魚の鍋、四方八方から吹き付ける風、寒さ…。サツマイモの鍋はまだ湯気を立て、火は鍋の周りを揺らめき、温かさを思い起こさせ、大切にしています。
母の台所は簡素で、戸口は煤で覆われ、一日三回火が灯るだけだった。それが、小さな隅に隠された、私の幼少時代を過ごした世界だった。黒い三脚、茶色の木の戸棚の脇に掛けられた古いアルミ製の鍋がいくつか… 台所の隅には鶏小屋もあったことを、今でもはっきり覚えている。鶏がお腹の中で静かにピンク色の卵を温め、ひながつつき出す日を待っていた。陶器の水差しと、その上にきちんと置かれたココナッツの殻のおたま。
記憶の奥底に、あの粗末な台所は数え切れないほどの思い出が詰まった場所だ。母は毎月、自転車で食料品店へ米や食料を仕入れに通っていた。一年中、米にはキャッサバやサツマイモが混ぜられていた。幼い頃から料理の仕方を学び、弟や妹の世話もしていた。霧雨が降り風が強い日、鍋に水を張って米を炊く時は、煙で涙を流した。記憶の中の、蒸した米とサツマイモの鍋は、忘れられない思い出だ。火が弱くてご飯が炊けないことが何度もあり、母に叱られたことを…。
米がない月もあり、子供たちはインスタントラーメンしか食べませんでした。インスタントラーメンがなかなか茹で上がらず、私が何度も泣いているのを、台所のあの片隅で見てきました…末の弟は私の腕の中で泣いていました。子供たちを飢えから救うためにジャガイモや野菜の芽を減らしなければならなかった時期もありました。母と私が米を二人の弟に与えたこともありました…台所のあの片隅は、私が何かに不満があるときに何度も慰めてくれる友達にもなりました。不思議なことです!子供の頃、私の涙はどこから来たのでしょう?父がいなくて寂しいときは、台所の片隅に立って泣いていました。
母は叱りつけ、膝まで頭を下げ、箸を持って赤い炭をつつきながら泣いた。二人の弟に腹を立て、静かにご飯をすくいながら泣いた。今、のどかな田園地帯を通り過ぎ、薄れゆく午後の陽光に漂う誰かの台所の煙を見ると、懐かしさで胸が痛くなる。かつては重労働で大変だった台所で作られた料理の数々から、どれほどの人が生まれ、育ち、成熟したのだろう。今、田舎では茅葺き屋根の家や古い台所はますます少なくなっている。現代の台所の時代では、大晦日に赤い火を囲み、バイン・テットを鍋で囲む喜びや悲しみの物語も、ますます少なくなっているのだろう…
母の台所は、私たちが育った場所です。誰もが、このシンプルで平凡な場所から、最も幸せな日々が訪れたことを知っているように。喧騒と贅沢に満ちた街にいても、夕食の思い出、茅葺き屋根を揺らめく青い煙、そして徐々に沈んでいく夕焼けに漂うあの頃の思い出は、なかなか忘れられません。
あの刺激臭をどうして忘れられるだろうか。何日経っても、あの匂いは髪や服に残っている。歳月が流れ、髪が午後の色に染まり、おとぎ話のような日々は記憶の中にだけ残る。懐かしい匂いだと囁く。その懐かしい匂いは、私の潜在意識に深く刻まれている。華やかな日々の中でも、時折、悲しみや胸の張り裂ける思いに襲われる。いつか、このシンプルで大切なものも、簡単に忘れ去られてしまうのではないかと不安になる。
昔の家には今、私だけが住んでいます。薪ストーブはもうなくなってしまいました…。弟は煙の刺激臭を遠くまで運んでくれます。私の髪は銀髪が増えました。父も長旅に出てしまいました。父がいなくて寂しいけれど、もう隠れて泣ける台所もありません。裏庭のポーチはもう10年近く誰も住んでいません…。
午後は徐々に暮れていく。ふと、そよ風がキッチンの煙の穏やかな香りを心に吹き込み、懐かしい昔の思い出が蘇ってきた。どこか奥深く、揺らめく炎、真っ赤に燃える炭火が、素朴で甘美な幸せを灯していた。
ティエン・ラム
出典: https://baoquangtri.vn/thuong-hoai-chai-bep-194464.htm
コメント (0)