冷たく湿った空気は、晴れた日を愛おしく思い、雨風から守ってくれた両親への感謝の気持ちを抱かせます。湿った空気と霧雨を感じて初めて、暖かく晴れた日に感謝し、幸せを感じることができるのです。作家のグエン・トゥアンはこう表現しました。「大雨の後にさわやかな陽光を見るような幸せ、壊れた夢を再び繋ぐような幸せ」
涼しい風、澄み切った空を織りなす雲と太陽の光の中に湧き上がる、心温まる感情。雨上がりには、大地も空も、すべてが温まり、心の中を覆っていた悲しみや憂鬱の暗い雲が徐々に消えていくようです。

雨が何ヶ月も雲に隠れている高地では、雨が止む兆しは決して容易には見えない。霧のかかった日々は、寒さと湿気、そして悲しみという感情の「コンボ」として、忍耐力を試される。
おそらくだからこそ、「墓の彫像の生涯」(チュー・ヴァン・ソンのエッセイ)において、森の雨の印象が、美と悲しみに敏感な魂によって、これほどまでに特別な形で表現されているのだろう。「午後の雨は彫像の顔を重く腫れ上がらせた。深い両眼窩から流れ落ちる水は、すり減った頬を伝い、顔を押さえる手を伝い、暗い洞窟の鍾乳石のように滴り続け、木質が腐り果てて痩せ細った膝へと滴り落ちていった。」
雨に触れることで、中央高地の雨季の悲しみを吸収できるのです。だからこそ、雨の合間に見る青い空、白い雲、そして雨上がりの黄金色の太陽のひと時は、本当に貴重です。
幼い頃の夏のことを今でも覚えています。長く激しい雨が降った後、空と大地は再び明るく澄み渡る空間に戻りました。歩道に横たわり、まるで白いチュールのカーテンを干すかのように空を優しく漂う雲を眺めていると、心の狭さや悲しみがすべて洗い流されるのを感じました。ふと、詩人玄奘が「真冬に太陽が昇る春/真夏に雨上がりの青い空/真秋に明るい風がちょうど良い具合に吹く」と詠んだのは、実に繊細で理にかなっていると思いました。
悲しい時に雨が降ると、心はより一層悲しくなるという心理法則は否定できません。しかし、真実は、人間の悲しみの源は雨ではないことが多いということです。だからこそ、雨の中、最も孤独で悲しい瞬間に、私たちは自分自身と向き合うしかありません。嵐の後、人間の心も同じように成熟するのでしょうか? 高校生の頃、私たち女子生徒はいつも大雨と強風が来てくれれば、アオザイの制服を着る必要がなくなり、雨に巻き込まれずに済むのにと願っていました。そんなささやかな、心ない願いが、嵐や洪水に見舞われる中部地方の人々にとって、食料や衣服、そして命の重荷になることを、誰が想像したでしょうか。
今も昔も、時々思い出すと、雨と私が絶えず互いに染み合っているのを感じる。ある時、土砂降りの雨の中、悲しみを抱えながらバスに乗っていた時、ちょうど下げたばかりの窓に雨が跳ねているのを見て驚いた。運転手が途切れ途切れの命令のように道路に向かって叫んだ。「気をつけろ、女の子が寝てしまうぞ!」
外では雨が土砂降りで、父親の後ろに座っていた赤ちゃんは首を反らせ、うとうとと眠っていた…その時、私の中で何かが突然湧き上がった。叫び声のせいでも、必ずしも土砂降りの雨のせいでもない。それは、私の魂を包んでいた悲しみをはるかに超えるものだった。雨の中で、苦しみと人間性が現実的で身近なものとなり、些細な喜びや悲しみが遠く感じられた。暖かさと冷たさ、乾きと湿り気、幸福と不確実性、貧しさと豊かさの間で目覚め、私は人生に内在する対称性と不完全さについて、より深く考えるようになった。
雨のことを思いながら、早く梅雨が過ぎ去ることを願い、待ち焦がれていました。時には不安で心配で、時には落ち着かず、不安でもありました。人生における通り雨、「霧雨の後の夕立」は、必ずしも心地よいものではありません…。しかし、人生も、すべてのものと同じように、雨の後には優しくも激しくも生まれ変わるのです。そして、人生と同じように、雨もまた生まれ変わる必要があるのだと、深く悟りました。
出典: https://baogialai.com.vn/sau-con-mua-post329937.html
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