昔のことを思い出します。旧正月になると家族全員が集まるので、母はサウおじさんを呼んで写真を撮らせてくれました。当時、おじさんの店は近所で唯一の写真館でした。毎年、私たちが成長していく姿、家族全員が集まる様子が、あの親密な写真に記録されていました。
少女と春 - 写真:Trinh Hoang Tan
母は写真を受け取ると、他の写真も一緒に飾ってある大きな額縁に写真を飾っていました。今考えてみると、昔は多くの人が同じようにしていたのですね。家に入ると、壁に写真立てが掛けてあるのがすぐに目に入ります。中には、テーブルの下のガラス板に写真を飾っている家もあります。そうすることで、来客が写真を見やすく、質問したり、話し合ったりしやすく、まるで自然で親密な会話の始まりのようです。
私は白黒写真に心を揺さぶられることがよくあります。時が流れ、多くの痕跡を残しているように感じるからです。祖父母や両親の顔や姿には、老いの兆しが刻まれています。子どもの頃の無邪気さは薄れ、誰もが不安げで、思慮深く、どこか用心深い表情で成長しています。写真を見ると、時の力の恐ろしさを実感します。特に、写真に写っている人が多く、今も生きている人もいれば、亡くなった人もいます。無常の音が、私の傍らで静かに聞こえてきます。
当時はフィルムで撮影されていたため、現像に時間がかかり、旧正月などの繁忙期には1ヶ月以上かかることもありました。撮った写真を見るまでの待ち時間も、とてもワクワクするものでした。写真を撮る機会が少なかったため、一枚一枚の写真を見返すと、恥ずかしそうで、少し無理やりな笑顔が浮かびました。今では子供から大人まで、カメラの前で「どう振る舞うか」を心得ています。比較ではありませんが、昔の写真は、今のような「工業的」なものではなく、本物で奥深いところがあるので、私は昔の写真を高く評価しています。
当時は、撮影のモチーフはカメラマンが決めることが多く、各家庭のテト写真は似たり寄ったりでした。家族はテーブルや椅子に座り、カメラ目線で微笑んだり、グラスを傾けて乾杯したり、ポーチの前に置かれた植木鉢の横に立ったりしていました。今では、小道具やセット、背景も豊富になり、写真は美しく洗練され、写っている人たちの肌や体型も完璧です。こうした違いは明らかですが、当時の興奮や熱気もかなり薄れているように感じます。
当時のテト写真は貴重でした。なぜなら、子供たちは新しい服を着て、大人も身だしなみを整え、家はマリーゴールドやシャクヤクの鉢植えできれいに片付いていたからです。今とは違って、今はもっと多くのものがあり、服は一年中買え、家の見た目も重要でした。家族写真を撮るために皆で集まるというワクワク感は、もはや必要なくなったようです。
スマートフォンがあれば、写真を撮ることはもはや難しくありません。誰もが望む瞬間を記録できます。しかし、数え切れないほど多くの写真がプリントアウトされることはほとんどありません。ソーシャルメディアプラットフォームには、保存して「表示」するためのツールが豊富にあります。しかし、私たちは自分自身が見ているよりも、他人に見せていることが多いのです。
自分の写真、食べ物や飲み物の写真、風景など、たくさん撮る人はいます。しかし、大切な人、特に祖父母や両親と一緒に撮る写真を忘れがちです。私の友人も、ある日突然父親が亡くなったとき、両親の写真が一枚も見つからずショックを受けました。ところが幸運にも、古いアルバムを整理していたら、5歳の時に父親に抱かれて撮った色あせた写真が見つかりました。その写真には父親への悲しみや恋しさの全てが収められていなかったかもしれませんが、あの瞬間が永遠に残っていたことを改めて実感させてくれました。
春の旅行先、公園や観光名所では、カメラマンがお客様をお迎えする準備を整えています。家族で賑やかに過ごす春の旅の写真は大切に保存できますが、私はやはり家で撮った写真が大好きです。自分がこの歳だった頃、家はこんな感じだった、テーブルのこの角、この窓枠、そんな思い出を。何年も経てば、もしかしたらもうそんなものはなくなっているかもしれませんし、私や隣にいる人さえも、あっという間に変わってしまうかもしれません。人生の百年を一枚の写真に収めることはできません。思い出の価値は、それが消え去った時にこそ、どれほど貴重で、どれほど惜しいものだったかに気づくのです。
今年の旧正月は、家族と一緒に写真を撮るのを忘れないでくださいね!
奇跡的な愛
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