( ビントゥアン週末新聞2024年3月29日号に掲載された、作家ヴー・トラムの詩「4月が戻ってきた」を朗読)。
詩人であり教師でもあるヴー・トラム氏が、夏の初めに学校で書いた詩を読者に送ってくれました。「4月が来る」という詩の中で、詩人は新たな感情と、言葉による独特の表現を凝縮しています。
詩人はこの詩の中でどんな感情を表現したのでしょうか?「春は長い遅延の後、別れを告げなければならない/季節は奇妙な陽光に傾き、4月が来る」でしょうか。たとえ私たちが時間を延ばそうとしても、春は必ず別れを告げなければなりません。そして、大地と空は別の段階、異なる天候へと移り、「季節は奇妙な陽光に傾く」のです。季節が移り変わり、初夏を迎えると、詩人の視点から見ると、陽光は異なるものになります。
それだけでなく、詩人は「4月は堤防の上で黄金色の陽光が芽吹く」という表現を現実のものにしました。「芽」とは木の枝の一部で、丸く曲がっていて、これから花を咲かせようとしているという意味であることは誰もが知っています。この第二節で詩人は「堤防の上で黄金色の陽光が芽吹く」という表現を用いています。これは詩人独自の表現で、堤防に降り注ぐ丸い陽光のイメージを表現しています。このイメージは、季節が移り変わる時、「奇妙な陽光」に付け加えられたかのようです。
詩の中の叙情的な人物が、再び思い出される。その郷愁は、校庭の若枝から生まれる。「四月は郷愁の蕾を手の中で揺らす」。校庭の木々の若茎や枝は、ごく普通の枝に過ぎない。しかし、詩人の感覚からすれば、それらは「追憶の蕾」となり、夏の詩の中の叙情的な人物たちの手の中で「揺れている」。人々の手の中で揺れることで、少しの感情がより深く、より情熱的になっていく。「どんな鼓動が木々の陰に取り残されているのだろう」。水の中で暮らしたことがなく、岸辺に取り残されている生き物がいるだろうか?ヴー・チャムは「鼓動が取り残されている」という独特の感情表現を通して、読者を導いている。講堂で髪を下ろした少女を見つめる少年の胸の高鳴り、情熱的な感情。その愛着と情熱は遠くにあるのではなく、愛する学校の木の天蓋のすぐ下にあります。
では、この地球上でどれだけの季節が過ぎ去ったのだろうか。人間は季節の年齢を数えることができるのだろうか。人生の喜びも悲しみも、空に浮かぶ果てしない雲のように流れていくのだろう。「季節は巡り、季節に年齢はない/思い出もまた、雲とともに優しく流れ、古びていく」
第五節、つまり終止符に、作者は読者の心に深く思いを馳せるため、宙ぶらりんの詩の一節を挿入した。「あなたも、私も、そんな風に」。おそらくそれは、この詩の登場人物であるあなたと私が、学校という屋根の下で抱く互いの愛情なのだろう。内気さ、少し秘密めいていながらも、言葉では言い尽くせない深い感情。詩の登場人物同士の詩の一節は、詩を愛する読者にも開かれたままにされている。そしてここには、夏の別れの日々の憂鬱な感情が込められている。「別れの後、夏もまた、痛みの雫を降らせた」
詩人であり教師でもあるヴー・トラムは、言葉を独自の方法で洗練し、拡張することに多大な努力を注ぎ、「April Comes」の中でイメージと感情に富んだ詩行を織り成しました。
作者は8語詩の形式を用いて、非常に柔軟なリズムを詩の中に織り込んでいます。各行を注意深く読むと、読者は様々なリズムに気づくでしょう。3/5拍子(詩人は6回使用)、5/3拍子(5回使用)、4/4拍子(4回使用)、2/6拍子(2回使用)、2/4/2拍子(2回使用)、3/3/2拍子(1回使用)です。この柔軟なリズムと、詩中の音節の絶え間ない変化が組み合わさり、「四月が来る」という詩の音楽性を豊かにしています。
多くの人々、そして幾世代にもわたる人々の人生には、幾多の夏が過ぎ去りました。多くの詩や歌が、聴衆、聞き手、そして読者の心に夏の思い出を深く刻んできました。教師であり詩人でもあるヴー・トラムは、初夏のひと月に込められた思いを込めて詩を寄せました。「April Returns」を読むと、読者はかつて通っていた学校時代、そして青春時代とともに流れていく思い出を再び思い出します。そのノスタルジックな流れの中で、「April Returns」の美しい詩は、詩を愛する読者の記憶に優しく、深く刻み込まれています。
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